【日本一周32日目:5月3日 月曜日①】萩
こんにちは! りかです。
今日も今日とて萩往還ウォーキングを目論んでおりますが、昨日の終了地点だった板橋口へのバスが11時45分発のため、午前中に少し観光をしてみたいと思います。 萩観光には欠かせないあの地へ、ついに行ってきましたv
まずは朝ごはんということで、昨日魚民でテイクアウトした焼きおにぎりです。
感想:いまいち……。
決してまずくはないけれど好みじゃない……。コンビニのおにぎりみたいな感じ。
もっと “焼きました!!” みたいなパリっとした焦げを求めているのです。。。
やすらぎゾーン。
ここですれ違いコント発生。
前方から車で幅寄せしてきた観光らしき雰囲気の老夫婦に「すみません」と声を掛けられまして、駐車したいところに私がいたからちょっとそこすみませんね~って感じなのかと解釈してしまい、会釈して足早に立ち去りました。 でもすぐに車も走り去っていったので、もしかしたら何か聞きたくて横に駐車してきたのかもしれません。 会釈返したのにスタスタ行っちゃうとか向こうからしたら謎すぎますよね() ごめんよヽ(;∀;)ノ
吉田稔麿誕生の地
石碑は稔丸表記なのですね。
松下村塾出身で、高杉晋作とともに松陰門下の四天王と呼ばれたそうです。 京都の池田屋にて負傷し24歳で亡くなっています。 そう、例の新撰組襲撃事件です( ´ A ` 。 ) ここで私の中のつたない歴史相関図が繋がりました。
片山東熊別邸跡
この方は明治時代に活躍した建築家で、当時の京都国立博物館を設計した人物です。 なんと12歳の時に奇兵隊に入隊していて、戊辰戦争も経験しているのですよ。 建築は明治に入ってから学校へ行って学んだようです。
それにしても12歳って。ランドセルしょっていますからね、我々の12歳は。 やっぱり幕末バグってます。
私も幕末に生まれていたらなんかすごい強い奴になって、奇兵隊に入ってくれって高杉から熱烈スカウトとか受けときたい人生だった……()
玉木文之進旧宅
玉木文之進は吉田松陰の叔父だそうです。 この方が近所の児童を集めて教授をし『松下村塾』と名乗っていたことから、ここが松下村塾発祥の地だと言われています。
長い坂道を登ってきました( ´ A ` 。 )
吉田松陰誕生地
というわけで、この見晴らしの良い丘の上が吉田松陰の生誕地です。 この辺りは『団子岩』と呼ばれているそうです。
吉田松陰とその弟子の金子重輔が静岡県の下田で外国への密航を企てている様子です。
ペリー艦隊を望見する姿を現しているそうです。
まっすぐな強い瞳でペリー艦隊そしてその先の異国の地を見つめる吉田松陰。一方、ペリーそっちのけで吉田松陰を穴が空くほど見つめる弟子。 多分ですけどこの弟子は松陰がいるならたとえ火の中水の中草の中なタイプだと思います。
高杉晋作草庵跡地顕彰碑
草庵というのは草ぶきの簡素な家のことだそうです。
この草庵を建てる時、既に吉田松陰は亡くなっています。 高杉は尊敬する師の生まれた場所だからこそこの立地を選んだのかな、と推察します( ´ A ` 。 )
墓所
吉田松陰ゆかりの人物たちの墓石が並んでいます。
高杉晋作のお墓。
ところで、最近はお寺に建てるお墓ではなく、自宅におけるタイプの小さいお墓が改めて注目されているそうです。 縦横20cmくらいで、模様替えや引っ越しもラクラク。宅墓というらしいです。
今の私にとってお墓参りは身近なものではないのですが、将来的にやっぱり負担になってくるのかなあと思うのですよね( ´ A ` 。 ) 生きている限り、大切な故人というのは増えることはあっても減ることはないじゃないですか。 どこかにお墓を構えてしまうと、やっぱり手入れしないと気になるし行かなきゃという精神的なプレッシャーが多少なりともある気がして。
自分が亡くなる側でも、小さな宅墓でずっとお家に置いておいてもらう方が嬉しいなあと。 実際のところ、世間一般の価値観はどんな感じなのでしょうかね。
まあそれは置いといて、坂を下っていきます。
伊藤博文公旧宅
お家の方は絶賛修理工事中でした。
12月31日に完了予定とのことです。
実は一度見学したことがあるのですよ。 もちろん状態を保つための工事なので見た目に大きな変化はないと思いますが、工事が終わったらまた訪れてみたいです。
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